はな🐈の調子がかなり悪くなり気胸らしき咳が2月から出始め、やっとおさまりつつあった4月。
今度は4月中頃からまーくんが毎日嘔吐をするようになった。
嘔吐は深夜から未明に必ずと言っていいくらい起きた。なので、まーが嘔吐して落ち着くまで普通の時刻に眠れる日はなくなった。
「急性胃腸炎」といわれた初期の診断。まーはお出かけも投薬も苦手。わずか数回だが、飲ませた制吐剤も胃腸薬もきかなかった。
【この子は薬を受け入れない】
【受け入れてくれることだけ、させてもらおう】
どんどん削痩するまーくん、いつ亡くなるとも分からないはなちゃんとふたりの面倒をみながら4月と5月と過ぎていった。
外出嫌いの嫌がるまーをキャリーに入れられたのは彼が酷く弱っていたからだった。
急性胃腸炎だったの???
血液検査の結果では顕著な異常がない、という。ただ、高中級数のみ高いと。
胃腸を詳しく調べるなら、さらなる検査とそれを受けて内視鏡検査など検討できるけれど、結局は内服薬となる、と、医師のお話。
薬を飲まないまーには内服薬は無理だし、前段階の検査を怖がるに違いなかった。
「まーは、薬をうけつけない」💊
してやれることはぼとんどなかった。
●恐怖を与えたり、痛みを伴う検査や治療、本人が受け入れないことはしない。
動物舎のルールである。
🐈🐾 🐈🐾
5月15日、はなが旅立った。三年まえから既に覚悟していた看取りだった。CKD(慢性腎臓病)による最期はふたりめだったがのんちゃんよりは遥かに穏やかだった。
🐈🐾 🐈🐾
9月になると、まーは、母からは見える家具の隙間でペタンと寝転んで一日を過ごすようになっていた。好きなものをわずかに食べるだけで、体重は毎日減少し3キロを切っていた。
仕事にでるときは、「夕方には戻るから待ってて!」と必ず声を掛けた。
その日、「ただいま!」ドアを開けると目の前の廊下にまーくんが倒れていた。
顔や体に触れたあと、耳の穴に指を入れるとかなり熱い、熱がある。腹部を触るとわずかにぷよぷよしており腹水の貯留を感じた。
意識はあるが体には力がなくなっていた。自身の血の気が引いていく音を聞いた。
電話をしたらいつも指名する先生がいて、夜間診察を受けた。
結局、医師と話しただけで、明朝から検査する運びとなった。この夜、熱を下げることくらいしかできなかった。
注射でなにか和らぐ症状があるならそれを、、、そう望んで翌朝、早くからまーくんはあれこれの検査を受けた。
こちらから提示した予算は6万円。
診断名 消化器型リンパ腫、末期
エコーでは、腸が侵されて一部が大きく腫れていた。針生検でもおかしな形のリンパ球と、壊死した細胞しか取れなかった。腹水もあったが抜去の必要はまだないとのことだった。
してやれるのは炎症をわずかに抑えるであろうステロイド注射だけだった。
それからわずか7日後、母が仕事から戻るのを待ってくれていたまーくん。ぐったりしたままで寝転んでいた。様子を一目見て、今夜、もう逝くのだとわかった。
膝の上に抱き寄せて、声を掛けなでるしかなかった。既に瞳孔は散大している。
薄い瞳の色は黄色とも緑とも区別がつかず、晩年の優しいまーの性格そのものだった。茶トラの黄色も暖かい色味だった。
呼吸数、心拍数ともに上がり、酸素を鼻腔のかなり近くに導入した。意識がしっかりある時は酸素の出てくるノズルをむしろ嫌がった。
20時半頃から容態は悪化した。そのうち、小さな痙攣が起き同時に小さな声をあげた。その瞬間に意識が完全になくなったようだった。
みるみる呼吸数が少なくなり、聴診しても心音は雑音に変わっていた。
しっぽの毛が逆立ち最期の一息を吐くと、まーの心臓は止まった。20時58分 永眠。
経験則だが、ネコは死に際しっぽの毛が威嚇する時のようにぼわっと逆立つ。
【まー? まーくん?! まーたん!】
名前を呼びながらまーを抱き締め泣きわめく母を他のにゃんずは遠巻きにして怯えていた。
【みんなびっくりさせてごめん、まーくんお兄ちゃんが、、、はなちゃんのところに行ってしまったよ】
土曜日に亡くなり月曜日に荼毘にふすことになった。タオルに包んだ保冷剤を頻繁に交換した。まーの遺体は汚れることもなく綺麗だった。これは珍しいことであった。
10月はお仏壇やお位牌を新調したりと忙しくした。
【お仏壇を置いて供養しなければ】
という衝動に駆られたのだ。
お仏壇には、新しく作った両親の夫婦位牌と、動物舎で生きた生き物たちの遺骨や遺髪を収めた骨壷をおいた。
御本尊は小さな掛け軸で【十三佛様とお大師様】にした。母の子どもたちを導き救ってくれることを祈って。
ボーティブという長い時間に渡り燃焼できる背の低いロウソクを灯し、白檀が僅かに混ざっているお線香を焚いて、四十九日までを数えた。
朝晩にドライフードやおやつをお供えした。エン麦がよく育ってるうちはそれを刈り取って草食獣達に。
両親含み御先祖様にはふりかけをかけた白飯を、炊飯した時だけ供えた。
両親には小さくカットしたバタートーストを時々供えた。
お仏壇に必要な具足がすべて揃うには日にちがかかったのだけれど、選んだりオーダーしたり、飾り付けをしたり、そういう忙しさが悲しみを紛らわしてくれた気がする。
それでも立ち直ることは出来なくて心身不調となり書道教室は11月いっぱい休講とさせてもらった。
はなが亡くなった時は、ブログにわりと早い段階で投稿できたけれど、流石に5ヶ月の間に二人も子どもを亡くすとどんぞこまで落ち込んだので、ブログなど頭から消えていた。
はなの訃報の投稿をみてコメントをくださった方がいて、コメント来てますメールで知った。
それがきっかけとなって、まーのことを書き始めたのであった。
🐈
まーくん。まーたん。
やんちゃが酷かったころはたくさん叱ってごめん。
「それ、ダメでしょっ!」
何でもかんでも好きにさせてあげたかったけれど、他の小さな生き物をハンティングするのはさすがに困って叱りつけたね。観葉植物もぐちゃぐちゃにしてくれたね。
順位が低かったころは、腕枕に来たかったのに、足元の方でずっと我慢してくれていたね。
モカやはなちゃんが亡くなり、男の子としては第1位になり、やっと腕枕にも来れたのに、わずかな月日だったね。
小梅姉ちゃんになんども挑んだけれど、一位の座は残念ながらとれなかったね。
「ママ、抱っこしてー」
モカと同じく縦抱っこの心地良さを覚えてまだ3年も経ってなかったかもしれない。両の前足で足踏みしてから立ち上がり母の肩に前足を掛けて甘えてくるまーくんは、極上の愛らしさであった。
「ママ、もう限界、まー、ごめん降りて」
まーが自分から離りるのを待ってやれなくてごめん。重いからと、グルルグルルと喉を鳴らしてる最中に降ろしてごめん。
出会いのとき、捕獲の瞬間は大人しくはなかったけれど、一発勝負で捕獲させてくれてよかった。京都からの電車は揺れて、途中、吐いてしんどかったよね。
まーくん、茶トラ特有の甘えん坊ぶりを見せてくれてありがとう。
まーたん、小梅姉ちゃんが18歳と半年になったよ。
まー、小梅を迎えにくるのはもう少し待ってやってね。2024年6月には19歳になるから、少なくともお誕生日は迎えさせて。
年老いたけど小梅は元気だもの、見ている限りはね。高いところだって上がって降りてこれるし、若い弟が悪さしたらダッシュで追いかけてるよ。
まー、モカ兄ちゃん、はな、琥珀達と楽しく過ごしていてね。20年は待たせずに必ず行くからね。
🐈
お仏壇のある風景に変わった動物舎。
お線香の香りとロウソクの燃える匂い。
そして綺麗なおりんの音が響く動物舎。
見たこともないお仏壇という変なものを受け入れてくれてありがとう。
母であるわたしと子どもたちのささやかな楽園、動物舎。
平和な時間が1分でもながく続きますように。