動物舎は南向きの部屋で、南中高度が高くなる夏になるにつれ、直射日光が差し込むことは少なくなる。
それでも、太陽が外壁コンクリートを温める小さな部屋の中は、5月からすでに充分暑い。
にゃんこもうさぎも、もちろん母も休日は伸びる伸びる。
・・真夏になるのが怖い。
先日、自転車で歯科に向かう途中だった。T字路にさしかかったところ、頭上から
「みーかーちゃ~ん‼」
上の方から女の子の大きな声がする。先の道路に男女の小学生がいて、遊んでいる。
声の主は水銀灯のポールてっぺん付近にしがみついていた。
「おぅ、Hちゃん、久しぶり~、進級できた?」
軽くひやかしてみた。
彼らのうち数人は我が動物舎にやってくる小5フレンズだ。
別のフレンズ女子Aちゃんはちょっと不機嫌で、水銀灯から降りたHちゃんは何時の間にか赤ちゃんを肩車している。
まったく驚いた。
「ちょっと、大丈夫?」
「落っことしたらたいへんよ^^;」
危なっかしいので、本気で心配した。
どうやら、不機嫌な彼女の妹が赤ちゃんの正体で、同級生に肩車してもらってる様子だった。
「Aちゃん、妹さんの赤ちゃん、可愛いね(^^)」
姉のAちゃんは口をとんがらせて見せた。彼女の気持ちがざっと流れこんでくる気持ちがした。
気づくとHちゃんはまた水銀灯の上に登っている。彼女は動物が大好きで、マウス、ハム、ウサギ、ニャンコすべてを触ることができる。
そんな彼女が唐突に
「みかちゃん、生まれたよ、うちも」
彼女はゴールデンハムスターを飼っているのだ。
「うそ~、ほんと?、 何匹?」
「チョッパーちゃうで、ヒトやで(*^o^*)」
「えええ? チョッパーの赤ちゃんじゃなくて?」
「うん、お母さんが産んだ。弟(^^)」
何だか他人事の様な話しぶりだ。
どうやら、今年は五年生に兄弟が誕生する当たり年らしい。
同級生には赤ちゃんは好評だけれど、末っ子あるいは一人っ子が、突如お姉ちゃんになったのだ。
受け入れ難い気持ちと、愛しい気持ちが交錯しているのだろう。
自分自身の妹とは12歳近く離れている。つまり同じ経験があるのだ。
みんなに赤ちゃんの子守を手伝ってもらいながら、少しずつ「お姉ちゃん」に成長していってもらいたい。
いち、にぃ、さん…誰かいないと思ったら、琥珀ちゃんがいない。
どこかで「ぴ~ぴよぴよ」と啼き声がする。小さなデグーがご機嫌なときの歌である。
鬼役の琥珀を煙に巻きリンとレイが出くわしたそこはベッドの下なのだが、デグー姉妹が歌っていたのである。
今度はケージのホイールを疾走する音が聞こえる。おそらくレイちゃんだろう。出入り自由のケージなので、琥珀をからかうのに飽きたら、小動物らしく回し車。。。
部屋からベランダ、玄関まで全部を駆け回るのとホイール疾走は別らしい。
しばらくは琥珀もベッドに上がって来そうもないので、モカたちと先に寝て待つこととしよう。
★写真は母のベッドとネコトイレを巡回したのち、床へおりたリンさん。短めのシッポが特徴。
★ 記事を修正していると、やっと琥珀が戻り、母のお腹を踏み踏み(*^^*)
みなさん、こんにちは。
雨の週末になりました。
雨の影響か、仮名を練習しようと思いたち、墨を準備するのですが、墨量と色味がイメージに合いません。
とりあえず墨は適当、難しい用筆を含む字の前後を、連綿ですが、集中的に書きました。
そのあと、忘れていた合格証の写メを撮って、今頃アップしております。既に 懐かしささえ覚えておりますf^_^;)
前年度の六段位允許状の末尾には
「観峰流書道宗家」
「原田 詳経」
とあったのですが、主催者が変更となったため
「漢字部門」
…というカテゴリーがつき
「日本習字教育財団」
「理事長 甲地史昌」
となっております( ̄^ ̄)ゞ
整理ボックスを片付けていたら、大切なメモ用紙がでてきた。
他人様はもちろん、親しい友人も知らないであろう篠の一面。照れ臭いこと限りないが、短歌や俳句を存外と愛する人なのだ。
唯一共感してくれた友は、若くしてみずからの命に終止符を打った。
その彼女がいたら、
「見て見て、このメモ。啄木の”一握の砂”から抜き書きしたものだよ 」
そんな風に会話が始まり、ああだこうだと解釈話で弾んだことだろう。
その啄木の歌から三編を、勝手に「恋の歌みっつ」と名付けた。
時として
君を思へば
安かりしこころ にはかに騒ぐかなしさ
先んじて恋のあまさと
かなしさを知りし我なり
先んじて老ゆ
思出のかのキスかとも
おどろきぬ
プラタスの葉の散りて触れしを
※ 歌集通りに記載した語句のうちわかりにくいもの
思出→思ひ出 と同意
プラタス→プラタナス別称
多くに知られる
働けど働けど我が暮らし…
ぢっと手をみる
とはまったく印象の異なる三編。
色が変わっても大切においてあるこのメモには30首ほどが抜き書きしてある。
いつか自運で、色紙か、条幅に和様式で書きたいと思った題材でもある。
…でもある、というからには、別の理由があって捨てずに置いてある歌たちなのだ。
萠春さんは他人の気持ちを深く理解しようとして、他人を不愉快にしたり、傷つけたりする言動が多いようである。
その場の気持ちに限らず、考え方や価値観などできるだけ知った方がより理解しあえると勝手に思い込んでいる。
しかし、それはどうやら傲慢なのかもしれないと、この頃思うことがしばしばである。
他者の心の裡を理解しようとなぜ思うのか?
それは、人が人と上手く付き合うには、相手のことをある程度は理解する必要があると考えるからではないだろうか。
日本語という言語がありボディランゲージもある。それらを利用すれば、そこそこにわかりあえるものだと思っている。
けれど、それらのツールは使い方を誤ると、修復できないほどのヒビを入れてしまう。
長く付き合いたいと思う相手には、もっと慎重になろう。
深く理解しようとして質問攻めにするのはやめよう。
相手の気持ちは生き物で、日々刻刻と変わるものと心得よう。
表情や語気にもっと敏感になろう。
近頃の萠春さんは反省すべきことばかりやらかしている。
神仏に懺悔するくらいの気持ちで、自分の言動を振り返って、
戒める習慣をつけなくてはなるまい。
自分のモノサシに拠り、ふと口にした言葉で知人を傷つけてしまった。
例えば、
「あなたは肝臓ガンです」
医師に告知されて、あっさりと受け止められる人は、まずいないだろう。
自分自身はもし何か病気になったらば、家族や医師任せにしないで、患者として情報収集すべきと思っている。
だから、病に罹患した知人がまだ知り得ない事を、ウェブで調べて口に出してしまったのだ。
「病気のことはまだ受け止めらない。すべて家族に任せてある」
そう告げられた。知人には自分と違って頼れる家族があるのを忘れていた。
なにより、知人が病を認められずにいることに気づけなかった。
充分に配慮しながら付き合っているつもりでいた。
でも、その配慮さえも老婆心なのだろう。
本屋さんでたまたま手にとった禅宗の本によって、「老婆親切」=「老婆心」と知った。
本来は「老婆が孫を可愛がる」という意味らしい。
でも、一般には、”お節介”の意味に転じている。
そんなことを知った矢先の出来事だった。
これからはもっとたくさんの種類のモノサシを用意しよう。老婆心も最小限にしておこう。
来月、13日が母親の三周忌。姉が一人で法要の準備をしたようだ。
自分には弔う気持ちが無い訳じゃないが法要に意義を見出せず、出席したことが無い。同時に、母が亡くなって悲しみに涙したことも無い。
「苦しみから解放されてよかったね」
その気持ちが大きくて、悲しみを感じない。
この頃、体調の優れない日が多くなった。
三周忌をまえに偶然、冠婚葬祭の広告ハガキが来た。
通夜の食事を無料招待するので試食して下さいというものだった。
母が亡くなる前、慌てて葬儀費用の積立をしていたことを思い出した。
葬儀会館の小さな部屋を借り、告別式と初七日を同日に済ませるプランで35-40円程度だった気がする。
自分もボチボチ遺書を書き始める時期に来たのだろう。後押しするようにハガキが来たので、なおさらそう思える。
自分は死んだら医学部にでも検体しようと思う。
ドナーとなり内臓が分散するのは産んだ母親に申し訳ない気がする。遺体がバラバラでも一箇所に廃棄される方がいい。
葬儀は遺された人達のためにある。その意見には一理あると思う。
ただ、自分には遺していく人が幸いなことにいない。
とりあえず、末っ子の琥珀を看取るまで、ホームレスになろうとも生きる必要がある。
・・・それだけだ。