自戒

萠春さんは他人の気持ちを深く理解しようとして、他人を不愉快にしたり、傷つけたりする言動が多いようである。

その場の気持ちに限らず、考え方や価値観などできるだけ知った方がより理解しあえると勝手に思い込んでいる。
しかし、それはどうやら傲慢なのかもしれないと、この頃思うことがしばしばである。

他者の心の裡を理解しようとなぜ思うのか?

それは、人が人と上手く付き合うには、相手のことをある程度は理解する必要があると考えるからではないだろうか。

日本語という言語がありボディランゲージもある。それらを利用すれば、そこそこにわかりあえるものだと思っている。

けれど、それらのツールは使い方を誤ると、修復できないほどのヒビを入れてしまう。

長く付き合いたいと思う相手には、もっと慎重になろう。

深く理解しようとして質問攻めにするのはやめよう。

相手の気持ちは生き物で、日々刻刻と変わるものと心得よう。

表情や語気にもっと敏感になろう。

近頃の萠春さんは反省すべきことばかりやらかしている。
神仏に懺悔するくらいの気持ちで、自分の言動を振り返って、
戒める習慣をつけなくてはなるまい。

命 儚し

 
  人は自分の余命を知ったとき、あるいは気づいたとき、どんなことを最初に
思うのだろう。
 
 最近ロードショーの始まった松田翔太主演の「イキガミ」は余命24時間の死亡宣告書
を渡されるらしいが、実際うちの母はもっと長くて余命1年らしい。
積極的治療をしてやっと1年ということだ。治療しなければ転移が広がり余命は短く
なっていく。
 
 母は気丈な人だ。もう少し元気であった頃、葬式の段取りなどをつらつらと書き綴った
という。どんな気持ちでそれを書いていたのだろう。冗談混じりに、「今から用意してもそ
のメモを使うのは10年先かもね~」と元気づけるつもりで話したことがあった。
 
 しかし、ガンは待ってくれない。先日診療記録を目にする機会があった。想像以上に全
身に転移していた。放射線治療による激しい頭痛やめまい、虚脱感、様々な苦痛に苦し
んでいた。代わってあげることはできない。それなら何をすべきか。
 
 どう考えてもわからない。一般論でいえば本人が望むことをしてあげるのが一番だろ
う。でも、本人が遠慮して家族にすら本当の希望を口にしないと思えるのだ。だからこそ
想像に想像を重ねて心情を察してやらねばならない。
 
 人も動物も儚いものだとつくづく思う。昨日まで元気でおしゃべりをした人が心筋梗塞で
逝ってしまったり、ちょろちょろと部屋を走って楽しんでいたペットがあっというまに衰弱し
て眠るように逝ったりする。
 
 自分の死に方を改めて考える機会をくれた母に感謝する。
 

文具屋の老人

 
  ふと通りかかった折に目に付いて記憶に留まった文具屋がある。
用事を済ませてそこへ立ち寄ることにした。
まさしく文具屋といった風情を醸している。
  ちいさな古い建屋の店先にワゴンがあり、ビー球、おはじきまでが並んでいた。
そこら一帯からは昭和の臭い空気が発生しているようだった。
  ちょっと敷居をまたぐのを躊躇い、その間スポドリを飲み干した。
  なんとなく心に勢いをつけて、ガラガラと音を立てながらサッシの扉を左へ引くと、
店のほぼ真ん中、低めのカウンターに向いて老人が座っていた。先客はいない。
「いらっしゃいませ」
言葉すらなかった。
 
 実際に必要だったのは補助軸だった。
鉛筆が短くなって書きにくくなった際に長さを足してくれる優れものである。
もっとも普段”鉛筆”を使うのは水彩画のときだけである。
訊けば一本100円。高すぎる・・・
 
  狭いながら老人なりのカテゴリに分類され、文具が並んでいた。
何も口にせずゆっくりと展示されてるものを眺めて回った。
老人なりに流行を取り入れ、国産の水彩色鉛筆と市販本が
立てて陳列されている。
しかし、みんなが気にする「値札」がみつからない。
不親切である。
  しかも値札が貼られている商品の方が少ない。
これでは何となく不安で迂闊にレジに持ち込めない。
 老人は私の進む方向に常にばれないよう視線を送っていた。
まるで
「このひとは何が必要なんだ?」
「万引きでもかんがえてるのでは?」
そんな視線をちくちく感じた。
 
 おいてある商品の中でもいつから展示してるのかわからない
埃まみれの伝票冊子類。
数少ないゲルインクや顔料インク、加圧式のペン。
 老人が言うには流行りすたりが激しく全ての商品をおく場所なんて
ない。それに今時キャップ式のボールペンなんて売れやしない。
代え芯くらいおいてるけどな。」
 
  まるで私がキャップタイプを好んで使用してるのをバカにした言いようだった。
粗品で数年前に頂戴したが確かにキャップは失くし易いかも知れない。
そこをあえて粗忽さを改善しようとして使っていた。またノック式デザインにはない
何かお洒落な印象と高級感を持っていた。
  ばねの入った代え芯はうっかりばねを飛ばしてしまうことも多い。
経験のある方も多いだろう。
その点、キャップ式はばねがなくてその心配がない。
気に入っている点でもあった。
 奥へと進むと500円程度の短峰の書道用筆が並んでいた。
これではだめだと探していると、展示ラックと壁の隅に
見本が押し込められていた。
 
 ベニヤ板にゴムをつけそこに高級筆がはさみこまれ、立てた状態で
保管されていた。
 高いもので20000円程度だった。しかし、どうみても見た目には
そこまでの価値があると思えなかったのもある。
 
  軸に自然の節のある竹を使用したものもあった。
でも、一つの製造者の筆しかなく、選べる数も10本程度であった。
 ここでも、老人は
「あ。そこは高級な筆が・・」
とでも 言いたげに立ち上がり背中越しに一挙一投足を
観察していた。
 
「かくかくしかじかのものはないですか?」
そう訪ねるたびに
「そんなもん売れんからおいてない」
「それはもう20年以上前に利用されており現在はない」
 
  ことごとく否定されるので流石につまらなくなって早々に
店をでた。勿論でぶらである。
 客商売なのにあの愛想の悪さで長年細々やっていくポイントは
なんなのだろう。価格も上代そのままであった。
 老人になると頭が固くなるというが、現実にそういった方を
拝見すると、脳に空洞もでき神経細胞のニューロンも減ってるんだな~って
しみじみ気の毒に思ってしまった。
 
 

コイ、鯉と書く魚のことである。京都では鯉の洗い、長野では鯉こくなど郷土料理に用いられる。

最近の縁日では見られないが、昔はウナギ釣りの横にはコイ釣りがあったものだ。

 さて、あるとき釣り堀に出かけた。使用されなくなったプールにマゴイが放たれている。

存外に水水が透き通り、鯉からもこちらがありありと見えているはず。餌は深い緑色の異臭を放つ練り物だ。

浮きは朱色や黄色の縞模様で縦長のもの。道糸を通す必要もない竹竿。

今はロッドだのラインだの横文字で呼ぶのが流行りであるが、そんな言葉を用いるのが恥ずかしいシンプルな仕掛けである

ところが、これで見事に釣れるのである。すぐそこに見えているコイが口をあけ、ずぼっと団子を飲み込むところまで観察できるのだ。

よほど餌に飢えているのだろう。次々に大物が釣れ、またたくまに水に浸けた籠はいっぱいになった。

 ここまで釣れるとつまらない。しかも、籠から放った数分後に同じ個体と思われるコイが釣れるのだ。

つまらないを超越し、コイにえもいわれぬ憐れを感じた。以来、そこへ出かけることはなかった。 

鯉は生まれ辿り着いた場所により終焉も様々である。人は選択肢が多い分、幸せだろうか。